女の子はちょっとだけ賢くて可愛い娘に限る・・・という話ではなく(それもまた真実ではあるが),最近,というか,昔から欲しいものと言えばまず手に入らないものが殆どだ。一番最近ではVWのニュービートルRSi。895万というプライスもさることながら,世界250台完全限定,国内デリバリーは実に45台限定という代物。仮にサマージャンボでも当たって資金を用意できたとしても,真っ新を入手するのはもうあり得ないことなのである。
こういう物言いだと限定ものに弱い典型的日本人だが,はっきりしているのはそんじょそこいらの限定品には何の魅力も感じない。壊れたり汚れたりしてもすぐに買い直せるので,定番の方がずっと購買意欲をそそられる。拘りとか,そんないい感じのものではなく,一度気に入ってしまったものを別のものに変えるのが面倒なだけで,いい例が今使っているデジカメだ。スナップ用には流石に別のものを先日買ったが,何かしらに使うのは未だに,でかくて,重くて,190万画素程度のCoolPix950が登場する。4年前のモデルを3台買い足しながらすべて現役で稼働中である。新しいモデルも欲しいは欲しいが,発色の特性や撮影のノウハウを一から構築し直すことを考えるとおいそれと新機種に買い換える気になはならないのだ。定番ではないかもしれないが,解っている道具を使いこなすときの感覚は,分かり合った者同士が飲み明かすのに近いのかもしれない。
話をRSiに戻そう。1千万近くなら別にビートルでなくたって,とお考えの諸兄姉も多いことだろう。というより,その方向性の方が正常だ。ただのカレラで良ければ911も買える。カイエンだっていける。M3だっておつりが来そうだし,AMGのC32も射程内だ。そうではない。ビートルが1千万だから。そこにこそこのRSiの馬鹿馬鹿しさがあって,その馬鹿馬鹿しさが購買意欲を沸々と沸きたてる源なのである。一体,誰があんな奇妙で使えなくておもちゃみたいな車に1千万も払うのか?払うことができるのなら,そのうちの1名は間違いなくここに居たのである。
もうひとつ。こちらはある意味購入は実現可能なのに,本物として確定させることが不可能に近いお気に入りがある。腕時計界永遠のグレーゾーン,ロレックス+ティファニーのダブルネームだ。ロレックスのダブルネームといえばカルティエの方が希少であり,おおよそ1年という歳月と何十万というコストさえ払えば少し前まではカルティエが鑑定書を出してくれたので,確実に本物を見分けることができたコレクターズアイテムだ。年代的にも古いものしかないから数も少なく当然お値段は推して知るべしというレベルにある。だが,こちらはものがあって金を出せれば買えるのだ。面白味に欠ける。可処分所得が有り余っている人にお任せの領域である。
一方で,ロレックス+ティファニーはザクザクある。それこそオークションサイトでも行って軽ーく検索すればバンバン出てくるだろう。怪しげなアンティーク時計を扱っている店に行っても,必ず1本や2本は置いてあるはずだ。ワランティが付いていて付属品やら箱がちゃんとしていたりすればいいのだが,何かが足りなかったりすることが殆どで,しかもワランティにまで偽物があるらしいと聞かされていればおいそれとは手を出せない。ティファニーでも出所証明をしていた時期があるようだが,今はそれも不可能に近いようだ。勿論,ロレックスもそれをやらない。さらに,明らかに後載せサクサクで出来の悪いティファニーロゴ以外は,ムーブメントが本物であればロレックスは何も言わないので修理しちゃったり,大問題となるはずのティファニーロゴも本物自体統一性がなかったりで,素人鑑定は,というよりプロであっても本体だけでの鑑定は無謀に近い作業だ。まして,人より安い出費で何とかしようなんていうのは,以ての外と言うことだ。
それに,もし本物だとわかったらなんでもいい,のではない事は当然だ。昔はGMTマスターでもいいかなと思っていたのだが,いつの頃からか候補は1つ。エクスプローラIIのホワイトダイヤル。コロッとした文字盤の感じにティファニーロゴがよく似合う。今時の相場なら150万〜200万くらいの間で買えるのではないだろうか。最初に欲しいと思った頃は50万くらいだった事を考えると,リスクも価格も大きく跳ね上がったものである。行き着くところ,何処を歩いても世の中時計は溢れていて不自由することも殆どないことだし,まだ暫くは腕時計をまく日は来ないということなのだろう。
欲しいものはいつでも沢山あるのが自慢に近い。でも,なるべく何も買いたくないのも正直なところだ。赤貧を加速させたくないという切実な事情があるにせよ,限りない貧乏性故,一度自分のものとなってしまったものを手放すのが容易ではないのだ。誰かが見たらゴミと同等の価値しかないようなものでも,それは何かしらの愛着を持ってしまっているのである。ものが増える一方で収拾がつかなくなるのは明白だ。それに,手に入れてしまったらそれは単に自分のもののひとつとなって,きっとまた違うものが欲しくなってしまう。欲望の賽の河原は永遠に続くことも身をもって知ってしまっているのだ。だから,高嶺の花は高嶺の花のままの方が幸せな事の方が多いのだろうと思っている。小さな勇気があれば違う結果をもたらすかもしれないとしても,である。ただ,高嶺の花は高嶺の花としていつまでも美しく咲き続けることを願いながら。
と
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